新潟県十日町市にある『十日町市博物館』に行き、国宝・火焔型土器を見てきました。
長年の夢だった火焔型土器との対面を果たすため、3日間の連休を使って新幹線で新潟へ行ってきました。
十日町市博物館では、メインの「国宝・火焔型土器」はもちろん、「王冠型土器」や、周辺地域との文化交流を感じさせる土器たちも多数展示されています。さらに土器以外にも、当時の暮らしを物語る石器や土偶など、見応えのあるコレクションが並んでいました。
東京駅から新幹線で越後湯沢駅に、そして、ほくほく線に乗って十日町駅へ
国宝・火焔型土器が展示されている『十日町市博物館』は、新潟県十日町市にある博物館。
十日町市は有数の豪雪地帯で、その豪雪地帯の様子も博物館で展示されているほど。火焔型土器が登場した縄文時代中期まだ温暖で、その後、人々は雪と闘いながらもその恵みを活かして暮らしていました。

東京駅から上越新幹線「とき」に乗り、越後湯沢駅で下車。
越後湯沢駅から「ほくほく線」に乗り換え、十日町市博物館の最寄り駅「十日町駅」まで行きます。
この日、新幹線からほくほく線に乗り換える時間があまりなく、走りながら重いスーツケースをゴロゴロとひきながら乗り換え。新幹線の越後湯沢駅からほぼ目の前に、ほくほく線の券売機、改札がありました。
ほくほく線は、Suicaなど非対応ですので、必ず券売機で切符を買わなければなりません。その時間も考慮して乗り換えたいところです。


関東のほうは晴れていたのに、新潟県にはいったときから雨模様でした。


10時過ぎ、ほぼ定刻通りに十日町駅へ。

まずは駅の右手にあるコインロッカーに重い荷物を預けて、身軽になったところで十日町市博物館を目指します。

十日町市総合観光案内所でも、荷物預かりサービスがありました。




身軽になったところで火焔型土器などを見に、十日町市博物館へ向かいます。
縄文の美に触れる。「国宝・火焔型土器」が展示されている十日町市博物館へ
十日町市博物館へは、十日町駅から徒歩10分か15分くらいです。
私は、スマホに地図アプリがある便利な世の中に感謝しながら、スマホ地図を頼りに博物館を目指しました。




千葉に比べて冷え込みが厳しく、あいにくの雨。防寒対策をして正解でした。博物館が見えた瞬間は、やっと雨風をしのげるとホッとしたものです。さらに気温が低くなれば、この雨も雪になるのですよね。





2020年(令和2年)6月に新築移転した十日町市博物館は、館内がとてもきれいでモダンな造りです。
入館料は一般600円。見学後のお楽しみ、ミュージアムショップも非常に充実していました。
国宝・火焔型土器を見るその前に、十日町市博物館の常設展が見応えたっぷりです
十日町市博物館の常設展は、国宝・火焔型土器をはじめとする「縄文時代の展示」、日本有数の豪雪地帯としての「雪国の暮らし」、そして「郷土の歴史」の3つのテーマで構成されています。
私は今回、その中から縄文時代の展示と、豪雪地帯での生活を伝える展示を中心に見学してきました。

縄文時代という時代について、パネル展示されています。

どうやって土器が使われ始めたのかは、まだはっきりとしたことはわかっていません。狩りをしながら移動する生活から、土器などを利用して煮炊きをし定住生活をする時代へと移り変わりました。

縄文時代という時代は、土器と弓矢の登場により縄文時代の人たちの生活が格段にあがりました。

火焔型土器(かえんがたどき)は、約5000年前の縄文時代中期に新潟県の信濃川流域を中心に作られた、燃え上がる炎のような装飾が特徴の土器です。鶏冠状把手(けいかんじょうとって)や鋸歯状突起など極めて華やかな造形美を持ち、祭祀的なイメージが強いが、表面の「おこげ」やふきこぼれの痕跡から、実際に木の実や肉の煮炊きに使われていました。
十日町市博物館の常設展入り口には、縄文土器の形と文様の変遷がわかる展示があります。


火焔型土器や勝坂式土器などの形や文様が素晴らしい土器が登場するのは「縄文時代中期」からです。




入口の展示で土器の歴史を学んだあと、いよいよ火焔型土器との対面を果たしました。
ずらりと並ぶ火焔型土器の群れはまさに圧巻の一言。念願だったこの光景を前に、胸が熱くなるような深い感動がこみ上げてきました。



火焔型土器とセットで出土するという「王冠型土器」です。

王冠型土器も基本的に文様については火焔型土器と同じですが、鶏頭冠把手の代わりに短冊状の把手が付き、鋸歯状口縁でなく波状口縁となっています。







展示されている火焔型土器を見ていると、火焔型土器につけられる文様について一定のルールみたいなのがあるように見えます。
- 口縁部(上部)に装飾を集中させる: 最も特徴的な、燃え上がる炎のような「鶏頭冠(けいとうかん)突起」や鋸歯状(きょしじょう)の小突起は、すべて口縁部(口の縁)につけられます。
- 4単位の構成: 鶏頭冠突起は口縁部に通常4つ配置され、4つすべてが同じ方向(右に尻尾のある左向き、または左に尻尾のある右向き)を向くというルールがあります。
- 胴部から下部へ: 胴部は細くくびれており、隆起線(粘土の紐)が渦巻くような、またはS字状の立体的な文様が装飾されます。
そんな火焔型土器のデザインについて解説看板がありました。





火焔型土器と火焔系土器の分布











火焔型土器の変遷:スタイルの確立と他地域との関わり
火焔型土器が登場し全盛期を迎える縄文時代中期中葉のころ、北陸の「上山田・天神山式」、長野から山梨にかけての「勝坂式・曽利式」、関東の「阿玉台式」「加曽利E式」、そして東北の「大木式」など、各地で特徴的な土器が出現していきます。
笹山遺跡でも火焔型土器のほかに、北陸や東北の影響を受けたと思われる土器が見つかっています。これは、当時の笹山遺跡が他地域との広範な交流ネットワークの中にあったことを物語っています。








国宝・火焔型土器が出土した「笹山遺跡」
新潟県十日町市にある「十日町市博物館」では、国宝・火焔型土器をはじめ、各地の遺跡から出土した火焔型土器や王冠型土器、石器などが幅広く展示されています。
国宝に指定されている火焔型土器は、博物館から北東へ3キロほど離れた「笹山遺跡」から出土したものです。
遺跡は、信濃川右岸の広大な河岸段丘の上に位置しています。この場所は、古くから土器や石器が出る場所として地元では知られていました。その後、1970年に市営野球場やスポーツハウスの建設が決まったことをきっかけに、本格的な発掘調査が実施されることとなったのです。
国宝指定番号1号の火焔型土器は、単なる調査の結果として現れたのではありません。そこには幾重にも重なる奇跡がありました。
笹山遺跡はかつて土石流に覆われた場所でしたが、そのおかげで遺跡の下部が「パック」されたような状態になり、奇跡的に良好な保存状態で守られていたのです。
もし、あの時の「もうひと掘り」がなかったら…これほどの至宝も、発見されぬまま今も地下に眠り続けていたかもしれません。

発掘調査が始まって3年目の夏。ついに、縄文土器としては史上初となる「国宝」の土器が、その姿を現したのです。
