
神奈川県相模原市にある史跡『史跡田名向原遺跡』は後期旧石器時代の住居状遺構が見学できる遺跡です。
金曜日は有給だったので「どこか博物館へ行きたいな」とGoogle検索して探し、相模原市の『史跡田名向原遺跡』をがヒットしました。
「旧石器時代の住居跡だって!?」と興味を惹かれ、千葉から車を走らせること約3時間。案の定、渋滞にハマってしまいましたが、なんとかギリギリ午後13時ごろ到着、約1時間半ほど見学してきました。




入館料無料で、個人使用にかぎり写真撮影可です。
後期旧石器時代の住居状遺構『田名向原遺跡』
神奈川県相模原市中央区の『史跡田名向原遺跡』は、相模川左岸の土地区画整理事業に伴う発掘調査により、1997年(平成9年)に発見され、現在のところわが国最古の例といわれる旧石器時代(約2万年前)の遺跡です。
一般的に、旧石器時代の人々は狩猟採集のために移動生活をしていたと考えられています。しかし、この遺跡の住居状遺構は、当時の人類がすでに定住し始めていた可能性を示す、歴史的に極めて価値の高い遺構です。
旧石器時代の暮らし
約2万年前、この地に人々が暮らしていた頃は、年平均気温が現在より7〜8度も低く、雨の少ない乾燥した気候でした。
激しい火山活動により広範囲に火山灰が降り注ぐなか、旧石器時代の人々は食料を求め、動物を追ったり植物を採集したりして生活していました。その暮らしに欠かせなかったのが「石器」です。彼らは狩りや加工のため、用途に合わせた多種多様な石器を作り出しました。
関東地方の旧石器遺跡は、主に富士山などの火山灰が堆積した「関東ローム層」に覆われています。この層は強い酸性のため、骨などの有機物は分解されてほとんど残りません。 そのため、当時の服装など詳しいライフスタイルは未解明な部分も多いですが、この厳しい寒さに耐えうる装いだったことは間違いありません。












動物の皮を加工し、腐敗を防いで柔らかくする「なめし」の作業。
防寒・防水に優れた皮製品を作るためには、内側の肉や脂肪を削り取る工程が不可欠でした。この重要な役割を担っていたのが、旧石器時代の道具『掻器(そうき)』です。




そして石器づくり。








後期旧石器時代(旧石器時代から縄文時代への過渡期)
後期旧石器時代は、のちの縄文時代へと続く「過渡期」のような時代。
自分の中で大まかなイメージは持っていましたが、いざ博物館で実物を見学してみると、「実はこんな時代だったんだ」という新しい発見が次々と出てくるから面白いんですよね。


旧石器時代の人々は、植物の果実などを採集するほか、狩猟によってナウマンゾウやヘラジカといった大型哺乳類を捕らえていたことが各地の発掘調査から判明しています。
遺跡を調査すると、「礫群(れきぐん)」と呼ばれる焼けた石のまとまりが見つかることがあります。これらは食材の加熱調理に使われたと考えられており、例えば大きめの葉で包んだ肉などを石の上に置き、蒸し焼きのようにして食べていたと推測されています。
田名向原遺跡でも、住居遺構の北側と西側でこの「礫群」が確認されており、当時の調理の跡を今に伝えています。




お肉などが並べていたところを想像するとご馳走ですね。
黒曜石と人の移動
黒曜石が大好きな私は、ここでテンションが上がりました。
マグマから生まれた天然ガラスである黒曜石は、加工しやすく、割れ口が非常に鋭利です。そのため、旧石器時代の人々にとっては極めて重要な石器材料でした。
驚くべきは、ここ田名向原遺跡から出土した黒曜石の産地です。なんと中部・関東地方の「すべての産地」のものが確認されているとのこと!これほど多様な出土例は他に類を見ず、当時の人々の移動や交易の広さを物語る第一級の資料といえます。
さらに、近隣の田名塩田遺跡群(A地区No.2地点)からは、長野県・星ヶ塔(ほしがとう)産の原石が9個もまとまって見つかったそうです。はるか遠く長野から運ばれてきたのかと思うと、ロマンを感じずにはいられません。








国の史跡『田名向原遺跡』
田名塩田(たなしおだ)土地区画整理事業に伴う発掘調査は、A・B・Cの3つの地区で行われ、これら全体を総称して『田名塩田遺跡群』と呼んでいます。
そのうち、平成8年(1996年)に行われたA地区の本格調査(No.4地点)において、後期旧石器時代の「住居状遺構」が発見されました。のちに国の史跡指定を受ける際、当時の小字(こあざ)名であった「向原」にちなんで、『田名向原遺跡』と命名されました。


旧石器時代の調査と遺構
土器がまだ存在しない旧石器時代の調査において、最大の手がかりとなるのは、なんといっても「石」です。 本来、川や山から運んでこない限り、平坦な台地上に石が存在することはありません。
だからこそ、発掘調査で石が出土すれば、そこには当時の人々の営みが残されている証拠になります。そのため、出土した場所や深さ、状況などを極めて慎重に調査・記録していくのです。
先ほどの黒曜石もその好例です。本来あるはずのない場所から黒曜石が見つかり、それを分析した結果「これは長野県から運ばれてきたものだ!」と判明することで、当時の広大なネットワークが浮き彫りになるわけです。




石器や剝片のなかには、お互いがぴったりと組み合う場合があります。このような石器の接合を調べると、石器がつくられた過程を知ることができます。




住居状遺構の発見
1996年(平成8年)10月、No.4地点の調査が開始されました。
関東ローム層下約50cmから遺物が出土しはじめ、さらに下層では、直径約10mの範囲に広がる大量の石器群と、環状に配置された円礫が確認されました。 礫群の中には、石器製作の工程を示す凝灰岩の剥離跡や、大型の剥片類がまとまって出土した箇所もあり、当時の生産活動を物語っています。
加えて、遺構平面の精査によって、中央部の赤い変色部(焼土)2か所と、青黒い円形の変色部(シミ)12か所が確認されました。調査者はこれらを「炉跡」および「柱穴」と想定し、単なる石器製作跡ではない「住居状遺構」としての詳細調査をおこないました。




田名向原遺跡は、遺構・遺物ともに保存状態が極めて良好です。環状に配置された円礫、柱穴、炉跡に加え、尖頭器(せんとうき)を中心とした約3,000点もの膨大な石器が出土しています。
また、遺構の全域から当時の暮らしを裏付ける炭化物も多数確認されました。 発掘調査は外周の円礫が出土したレベルで終了していますが、その下層には、さらなる遺物が眠っている可能性が十分に予想されています。
















番外編:田名塩田遺跡群から出土した『真脇式土器』
後期旧石器時代の住居状遺構を見学し終え、ふと、とある小部屋に足を踏み入れた時のことです。
「うおおおおーーー!!!なんだ、この土器は!!!」
予期せぬ出会いに、心の中で叫ばずにはいられませんでした。


真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県能登町真脇に位置する、北陸最大級の縄文時代の遺跡です(国指定史跡)。
富山湾を臨み、三方を丘陵に囲まれた、穏やかな入り江の奥の沖積平野(ちゅうせきへいや)に立地しています。










まさか石川県能登町の土器が、遠く離れた神奈川県相模原市の地から出土するなんて……!
当時の人々の想像を絶するネットワークの広さに、あらためて驚かされました。
田名塩田遺跡群が語る、縄文から古墳時代までの彩り豊かな出土品
真脇式土器の美しさもさることながら、会場には他にも「曽利(そり)式土器」や、非常に珍しい「クルミ形土器」などが展示されています。








こちらは古墳時代「谷原12号墳出土の副葬品」です。




史跡田名向原遺跡公園で日本で唯一!2万年前の住居状遺構を見学、そして竪穴住居と復元古墳も
学習館の見学を終え、隣接する遺跡公園へ移動。いよいよ実際の住居状遺構を見学してきました。
それにしても……風は強いし、日差しは容赦ないしで、この時期の屋外見学はなかなか過酷でしたね(笑)。


最初は谷原12号墳(復元)です。








古墳に隣接して復元された竪穴住居が建っていたのですが、じっくり見入ってしまい、うっかり写真を撮り忘れてしまいました。


そして、その先には、さきほど見学していた住居状遺構があります。


遺跡に「復元」と記されているのには理由があります。実は、貴重な遺構を保護するために一度埋め戻しが行われており、その真上に当時の姿を再現した「レプリカ」が設置されているのです。
つまり、本物の住居状遺構は、今私たちが立っている場所のずっと下層に、大切に守られながら眠っているということになります。そう思うと、足元に広がる歴史の重みをより強く感じますね。










今回の旅を通して、また一つ、古代史のロマンに触れることができました。 旧石器から縄文へ。当時の人々は、私が想像していた以上に高度な技術を持ち、豊かなネットワークを築いていたのだと、改めて深く実感しています。
この感動を胸に、次は北海道のピリカ遺跡を目指したいと思います。北の大地への憧れが、いっそう熱く膨らんだ一日でした。








