
南関東最大級の環状集落『下野谷遺跡』に行ってみよう!
西武新宿線「東伏見駅」から徒歩10分ほど、南関東最大級の環状集落『下野谷遺跡』があります。
環状集落とは『縄文時代中期、中央の広場を囲んで竪穴住居が円形・馬蹄形に配置される集落』
下野谷遺跡は西集落と東集落からなる石神井川の高台にあるムラで、西集落の一部には竪穴住居、墓域、土器溜まりが復元されております。


西武新宿線東伏見駅南口から青梅街道方面へ400m右側の高台に遺跡はあります。横断歩道などはありませんので、車には十分に注意してください。竪穴住居内の見学は日曜日のみとなっています。
西武新宿線「東伏見駅」から下野谷遺跡へ
私は千葉県に住んでおりますので、東西線で「高田馬場駅」で西武新宿線に乗り換え準急で東伏見駅へ。
西武新宿線に乗った記憶を思い出してみると、1回か2回あるかないかくらいしか利用したことがないような。
高田馬場駅で少し乗り換えに戸惑うひと笑。
家の最寄り駅から約1時間半ほど、赤い鳥居が見える『東伏見駅』に到着です。




東伏見駅から徒歩15分ほどのところにある「東伏見稲荷神社」
東京にいながら京都にある伏見稲荷大社のような千本鳥居が見られるそうです(今回は行けませんでしたが)


下野谷遺跡までの道は大きな歩道がなく、車に十分注意をして歩いていきます。


歩道を歩いていくと石神井川が見え、右側に公園へ行く階段が見えてきます。
遺跡は高台にあるので、階段をあがるか坂をあがり右側に見える公園の正面玄関?入り口から入ります。










縄文時代中期の南関東最大級の環状集落『下野谷遺跡』
縄文時代中期、南関東で最大級の環状集落「下野谷(したのや)遺跡」
集落の下には石神井川が流れており、令和8年(2026年)現在、遺跡の周辺は閑静な住宅地となっています。
町田市にある「田端・田端東遺跡」も、保存のために遺跡の一部に盛土が施され、その上が公園として整備されていますが、それ以外の場所は公園と住宅地となっております。
現在、公園になっているのは「西集落」の部分です。
下野谷遺跡は戦前から、畑を耕作する際に縄文土器の破片などが多く見つかる場所として知られていましたが、正式には1950年、吉田格(よしだ いたる)氏によって「坂上(さかうえ)遺跡」という名称で紹介されています。
その後、長らく本格的な調査は行われませんでしたが、高度経済成長期に遺跡周辺にも開発の波が押し寄せると、学者や学生、そして地域住民の間で「遺跡が消滅してしまう」という危機感が高まりました。……(中略)……そして2007年、遺跡を保護するために「下野谷遺跡公園」が開園したのです。
下野谷遺跡が位置する西東京市は、武蔵野台地のほぼ中央に位置しています。
縄文時代の下野谷遺跡は、日当たりの良い広々とした高台の上にありました。当時は湧水も豊富で、石神井川の水量も現在より多く、低地には沼が広がっていたようです。
台地の上にはクリやクルミなどの落葉広葉樹の森が広がり、水と緑に恵まれたこの土地は、採集や狩猟を生活の柱としていた縄文時代の人々にとって、まさに絶好の生活拠点であったと考えられます。




トイレの隣にあるベンチには下野谷遺跡がどういう地形の場所にあるかわかる立体模型があります。


写真の中央で蛇行しているのが石神井川です。そのすぐ下側には、下野谷遺跡をはじめとする数々の遺跡が高台に点在しています。
石神井川より上の、薄緑色や水色が点在しているエリアは低地にあたり、当時は沼地であった可能性が高い場所です。
このように、縄文時代など古くから「高台で住みやすい」とされていた場所は、時代を経た現代においても変わらず住みやすい場所となっているのです。








土壙墓群(お墓)
下野谷遺跡は「環状集落」と呼ばれる構造をしており、一番外側の円形部分に住居が配置されています。円の中心に向かうにつれて、広場、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、そして「土坑墓(どこうぼ)」というお墓のエリアに分かれています。
住居に囲まれた広場からは、長径1メートルほどの穴(土坑)がまとまって見つかりました。
これらの穴からは、逆さまに埋められた土器や耳飾りといった特殊な遺物が出土しているため、お墓であったと考えられています。








竪穴住居(2号住居・3号住居)
下野谷遺跡では、2軒の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が復元されています。
これら2軒の住居は、造られた年代や形がそれぞれ異なっています。さらに、住居の中に設置されていた「炉(ろ)」の構造にも違いが見られるのが特徴です。
2号住居
こちらは、縄文時代中期後葉(約4,500〜4,000年前:加曽利E式期)の住居を復元したものです。
入り口部分がやや外側に張り出しており、その両側の壁には床よりも一段高い「テラス」が設けられているのが特徴です。6本の柱で支えられた構造で、壁の周囲には排水や区画のための溝が巡らされています。
また、炉(ろ)には土器が埋め込まれておらず、床を浅く掘り込んだ跡だけが残る「地床炉」という形式が採用されています。






3号住居
こちらは、縄文時代中期中葉(約5,000〜4,500年前:勝坂式期)の住居です。
5本の柱で構成されており、柱と柱の間の床面に浅い溝が掘られているのが大きな特徴です。また、炉には「勝坂4式」と呼ばれる土器が埋め込まれた「埋甕炉(まいようろ)」が使われていました。
















身体がかたいので出入りが大変です笑
土器溜まり(1号住居)
こちらは、縄文時代中期中葉(約5,000〜4,500年前:勝坂式期)の遺構に関する解説です。
使われなくなった住居(廃絶住居)の跡からは、大量の勝坂式土器が発見されました。
これは単に不要なものを捨てたのではなく、縄文人の「おくり」の精神を示す、一種の墓のような場所であった可能性を指摘する研究者もいらっしゃいます。
現在、この場所には当時の状況を再現するため、遺構の真上に土器のレプリカが設置されています。






公園で40分ほどかけて、じっくりと遺跡を見学しました。
縄文時代の人々の暮らしが肌で感じられる、素晴らしい遺跡公園でした。
それでは、次は下野谷遺跡から出土した土器などを見学するため、田無駅の方へと移動することにします。


西東京市西原総合教育施設にある『西東京市郷土資料室』で、下野谷遺跡についてのパンフレットが無料でもらえます。



