加曽利貝塚博物館では2025年10月15日から2026年3月1日まで『加曽利B式展・加曽利の名を持つもうひとつの土器』という企画展が行われていました。3月1日の最終日に私は、千葉市若葉区桜木にある加曽利貝塚へ出かけました。

千葉県千葉市にある国の特別史跡『加曽利貝塚』
千葉市若葉区桜木には国の特別史跡に指定されている貝塚『加曽利貝塚』があります。
加曽利貝塚に残された人類の痕跡は、旧石器時代までさかのぼり、大きなムラがつくられたのは縄文時代中期後半(約5000年前)で、直径約140mで環状の形をした北貝塚が形成され、縄文時代後期前半(約4000年前)になると直径約190mで馬蹄形の南貝塚が形成されます。
加曽利貝塚の南側に広がる馬蹄形貝塚。その形成期である縄文時代後期前半に誕生したのが「加曽利B式土器」です。関東地方を中心に流行したこの土器は、大正13年(1924年)の調査時に「B地点」から出土したことが名前の由来となっています。今では縄文後期の指標となる、重要な土器形式として知られています。

ポスターの下にあるパンフレットは無料でいただけます(ひとり1冊です)
加曽利B式という名前についての経緯
加曽利貝塚で出土している土器に、加曽利E式土器と加曽利B式土器と、EとBというアルファベットだけ違う土器が存在しています。
加曽利貝塚で初めて行われた発掘調査は、明治40年(1907年)。当時の調査は、人骨やめずらしい土器・石器を見つけることを目的としていて、考古学的な発掘調査とは言えないものでありました。
その後、考古学的視点にもとづいた調査の必要性がひろまり、特に重要とされたのが、土器の形や文様などの変化の過程をもとに時期を推察する「型式学」と、地層の上下関係から新旧を判断する「層位学」です。
加曽利貝塚における最初の本格的な発掘調査は、大正13年(1924年)に東京帝国大学人類学教室によって行われました。広大な遺跡内にB・D・E地点の調査区を設定し調査したところ、B地点とE地点から、それぞれ異なる特徴を持つ土器が出土したのです。
特筆すべきはB地点の成果です。ここでは「B地点特有の土器」が積もった層のさらに下の層から、「E地点特有の土器」が見つかりました。「下の層にあるものほど古い」という地層の法則(層位学)により、E式からB式へと時代が移り変わったという新旧関係が、明らかにされることとなったのです。



形のバリエーションが豊かな加曽利B式土器
加曽利B式土器にも、さまざまな形の土器があるようです。先ほどの深鉢形の他に、浅鉢、鉢形、舟形、箱形、注口土器など、バリエーション豊かです。





加曽利B式土器についての解説と、土器の形、文様についてもじっくり見比べていくのも楽しいですね。


作り方によってふたつの土器に分けれる加曽利B式土器
加曽利B式土器は、形のバリエーションが豊かなのもありますが、作り方によってふたつの土器に分けられます。その作り方とは「粗製土器(そせいどき)」と「精製土器(せいせいどき)」です。ちなみにこれは、加曽利B式土器よりも古い時期の土器にはなかった分類です。
粗製土器とは、器種(用途に応じた土器の種類)で深鉢を主体として、装飾性が低く粗雑なつくりをしていますが、一方、精製土器は、深鉢、浅鉢、鉢、注口土器などの器種が豊富で、装飾性が高く、丁寧なつくりが特徴です。
粗製土器が日常の煮炊きなどに日常に使われた一方で、精製土器は食べ物の盛り付けなど、用途に応じた使い分けがされていたと考えられています。
特に精製土器の中には、注口土器や異形台付(いけいだいつき)土器のように、お祭りや儀式(祭祀)で使われたと推測されるものもあります。このように、「作り方」の違いは「使い道」の違いと密接に関係しているのが、加曽利B式土器の面白いところです。








粗製土器と精製土器の違いは、それぞれの変化の方向性の違いにも見られます。粗製土器は、在地的な要素の中で形や文様が時期ごとに変化していくのに対して、精製土器は、地域を超えた共通性が見え、様々な要素が複雑に絡み合いながら変化していったと考えられます。
加曽利B式土器の細別(土器の特徴によって3段階に細別されます)
関東地方の縄文時代後期中頃を代表とする土器として知られている加曽利B式土器。特徴によって3段階に細別されています。
加曽利B1式土器

精製土器は、ひとつ前の型式である堀之内式土器から特徴を引きついだ、深鉢、鉢、浅鉢、壺、注口土器などからなります。
深鉢の特徴は、底部から直線的に立ち上がる胴部と内湾する口縁部、横帯文と呼ばれる横方向の線と、それを縦に区切るような文様を施文すること、口縁部には3単位の突起を持つものが見られることです。横帯文と縦に区切る文様は、浅鉢や鉢にも見られ、口縁部の内側に文様を施文するものもあります。




加曽利B2式土器

加曽利B2式は、さらに古い段階を加曽利b2式古段階、新しい段階を加曽利b2式新段階と呼びます。B2古・新段階と2段階に細別できるとする見方があります。
加曽利B2式古段階では、加曽利B1式で見られた、横帯文を縦に区切っていた「の」字の文様が崩れ、対弧文と呼ばれる文様に変化します。深鉢の形が大きく変わるのもこの時期です。



これまでの直線的な胴部と内湾する口縁部という器形に対し、胴部は膨らみを持ち、口縁部は外反するように変化します。これは関東東部で一般的な器形になります。
加曽利B2式新段階では、斜線状の文様が登場します。そのほか、新たにソロバン玉のような形をした土器や、異形台付土器がつくられるようになり、これらの器種は、次の加曽利B3式にも続きます。
加曽利B3式土器
加曽利B3式土器は、施文した縄文を磨り消す「摩消文様」が主流となります。口縁部に刻目を持つ土器も、この時期の特徴をひとつです。磨消文様は、加曽利B式の次の型式である「曽谷式」にも引きつがれていきます。



加曽利B式土器の終焉
加曽利B式土器は、どのように「終わり」を迎えるのでしょうか。加曽利B式の次の型式であり曽谷式とは、千葉県市川市曽谷貝塚から出土した土器をもとに設定された型式です。加曽利B式と同じく、粗製土器・精製土器の区別があり、器種構成に大きな差はありませんが、ひさご形と呼ばれるひょうたんのような形をした深鉢土器が出現します。装飾的な新たな要素として、こぶのような突起が口縁部に付けれられることも、この時期の特徴のひとつです。文様は、基本的には加曽利B3式で多く見られる磨消文様の要素を引きつぎますが、半円が上下半分で入り組むような形で施文される文様が見られます。このように、新たな器種や装飾の要素を受け入れ、加曽利B式は後期終わりごろに曽谷式へと変化していくのです。
曽谷式土器





安行式土器



安行式土器は、加曽利B式土器の器形や装飾を引きついでいる土器として指摘されています。
千葉市内の加曽利B式土器が出土した『加曽利貝塚』
今回の加曽利B式土器企画展が開催されている会場「加曽利貝塚」(の加曽利貝塚博物館ですが)、そこで出土した加曽利B式土器を見学していきたいと思います。

加曽利B式土器については、さきほど書いてきました。それらを踏まえて見学していきます。




雑な作りの土器





以上、ここまで加曽利貝塚の加曽利B式土器でした。
千葉市緑区『六通貝塚』
千葉市緑区にある『六通貝塚』、現在の緑区おゆみ野中央7丁目に所在する縄文時代中期末期から晩期中期を主体とする集落遺跡です。村田川の下流に立地し、貝層の規模は東西140メートル、南北125メートルの弧状に近い馬蹄形の貝塚です。周辺には、小金沢貝塚。、木戸作貝塚、森台貝塚、上赤塚遺跡、大膳野南貝塚など縄文時代後期の貝塚が集中しています。開発によって50軒以上の竪穴住居跡や多数の土坑、人骨などが見つかっています。六通貝塚は主変の貝塚と比べて貝塚の規模が最も大きく、集落の存続期間も長い遺跡で、位置的にも集落群の中核的な存在だったと考えられています。










関東西部で流行した加曽利B式土器の特徴を持つものや、東北地方に由来する文様を持つ土器もあり、広域なネットワークを持っていた集落であるということがうかがえます。
以上、加曽利貝塚博物館で開催されていた「加曽利B式展」でした。加曽利E式土器推しの私でしたが、今回の展示を見学して、加曽利B式土器にも興味がわきましたし、他の博物館を訪れたときに加曽利B式土器に出会ったときには、この展覧会のことを思い出して、土器をじっくり見ていきたいと思いました。