縄文時代と聞くと、狩猟採集の素朴な暮らしを思い浮かべる方が多いかもしれません。
しかし約6,000年前の東北北部から北海道南部では、そのイメージを大きく覆すような「大規模ムラ」が出現していました。
そこでは、多くの人びとが集まり、食料の生産や加工、貯蔵、さらには祭祀や遠隔地との交流までが行われていました。いわば、地域の拠点ともいえる高度な社会がすでに形成されていたのです。
その背景にあったのが、「円筒土器文化」と呼ばれる独自の文化圏です。
本記事では、円筒土器文化の特徴とともに、山内丸山遺跡・大船遺跡・御所野遺跡といった具体例を通して、縄文時代の大規模ムラの実像に迫ります。
円筒土器文化と大規模ムラ
約6,000年前の東北北部から北海道南部地域では、「円筒土器」をもつ集団によって、生活の拠点となる「大規模ムラ」がつくられるようになりました。同じ頃の東北南部では、円筒土器とは異なる形や装飾のある「大木式土器」をもつ集団により、同じような大規模ムラがつくられました。
大規模ムラは人口の増加を背景として、道具や食料の生産・加工、葬祭、交流・物流の拠点として機能しました。また、社会が複雑化していくことで多様な施設がつくられるようになります。ここでは高度な機能をもつ大規模ムラの様子を紹介します。
円筒土器文化とは

6,000年前から5,000年前頃まで、北海道南部と東北北部地域で「円筒土器」という特徴的な土器が多く使われました。円筒土器は、筒形で底が平な形状となり、多様な縄文を用いて装飾されています。この土器をもつ文化圏を「円筒土器文化」とよびます。この時期には、地域の拠点となる「大規模ムラ」が出現し、居住や貯蓄施設に加えて、道路や水場施設、大型建物、共同墓地や盛土遺構などの生活インフラが整備されたことが特徴です。
北の大規模ムラ・大船遺跡
大船遺跡は、北海道函館市にある、約5,000年前から4,500年前にかけて長期間にわたって繰り返し営まれてきた集落遺跡です。1996年(平成8年)の発掘調査では、竪穴住居や盛土遺構、そして膨大な量と土器や石器などが発見されました。遺跡からは、住居施設である竪穴住居や墓、廃棄に伴う祭祀場として位置づけられた盛土遺構、さらに食料の貯蔵穴などが見つかっており、地域における拠点集落として位置づけられています。竪穴住居は800棟以上あったと推定され、規模が大きく、非常に密集していた存在していたことが特徴的です。なかでも、長さが8~11mあり、最も深いもので24mの深さとなる大型住居は特筆すべきものです。また、約1,100年にわたって継続して集落が営まれたことも特徴としてあげられます。
この大規模ムラでは、そこでくらす多くの人びとの食料の確保から、加工や貯蔵、そして廃棄にいたるまでのサイクルが確立していました。特に、食料加工にかかせない石皿の大量の出土は、このようすの一端を物語っています。








北の大規模ムラ・山内丸山遺跡
山内丸山遺跡は、青森県青森市にある、約5,000年前から4,200年前にかけて長期間にわたって営まれた大規模な集落遺跡です。遺跡の存在は江戸時代から知られており、1953年(昭和28年)にはじめて発掘調査が行われました。その後、発掘調査は断続的に行われていましたが、1992年(平成4年)からの発掘調査で、1,500年以上続いた大規模な集落遺跡であることがわかりました。この調査結果から広大な範囲が保存されることとなり、2,000年(平成12年)には特別史跡に指定されました。
山内丸山遺跡では、約5,900年前に集落が出現し、約5,500年前になると他の集落と比べてもその規模が大きくなります。なかでも約5,000年前に集落が最も拡大した時期とされています。他の集落との差別化が図られた「大規模ムラ」は地域における「拠点」となります。この頃の集落は、多数の住居(竪穴建物)と食糧貯蔵施設(地下式保冷穴)、集会施設、祭祀施設、集団墓地などからなり、道路もつくられました。これらの施設は長期間継続してつくられ、計画的に配置されていました。竪穴建物には長さが30mを超えるものがあり、掘立柱建物も大型化しました。また、土坑墓の列が420m以上続くなど、これら施設もまた規模の大きなもので構成されます。さらに、ムラの周りにはクリ林がつくられ、それを管理していたこともわかりました。
山内丸山遺跡では、実用的な道具が多く出土しているほか、祭祀などに使われたとみられる非実用的な道具も多く見つかっています。また、遠く離れた地域との交流を示すヒスイや黒曜石なども多く、物資の集積がみられます。さらに、盛土からは土偶や装身具などの祭祀にかかわる遺物も多数出土し、地域の拠点集落としての位置づけがより強まったことがうかがえます。
このように、山内丸山遺跡は、遺構(住居などの施設の跡)の規模や種類、両、遺物(縄文人が残したもの)の種類や数量などがきわめて豊富であり、この時期に特徴的な大規模集落のすがたをよく表しています。地域の多くのひとびとの共同作業により生活が営まれたことで、大規模ムラがつくられ、長期間維持されることとなったのです。


板状土偶
山内丸山遺跡では、これまでに2,000点以上の板状土偶がみつかっています。この時期の土偶は、板状の粘土に頭や腕、胸、胴、脚などを表現して人体を表すものです。この遺跡でも、もっとも大きなものは32.5センチあります。十字形で全体を表現し、頭部には髪や眉、目・鼻・口・耳・顎といったパーツがそろいます。また、口から脚までが孔が貫通しており、体内の構造も簡素に表現しています。胴体部分には、瘤による胸や臍の表現が見られます。

遠隔地との交流
山内丸山遺跡には、北陸地方うあ北海道など遠隔地から多くの物資が集められました。
北陸地方から持ち込まれたヒスイじゃ多数出土しており、さらに、原石から未成品、そして完成品がそれぞれ見つかっていることから、ここでヒスイ製品が作られていたことがうかがえます。
北海道からは、黒曜石や、石斧の素材となった緑色岩(アオトラ石)や青色片岩が持ち込まれています。黒曜石は、石斧の素材となった石材とともに持ち込まれた可能性も指摘されてます。






北の大規模ムラ・御所野遺跡
御所野遺跡は、岩手県一戸町にある、約5,000年前から約4,200年に営まれた集落遺跡です。
1989年(平成元年)から2012年(平成24年)まで継続的に行われた発掘調査で、東西約500m、南北約120mの細長い段丘の全面に集落が広がる、大規模な集落遺跡であったことがわかりました。
発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物などの居住にかかわる遺構のほか、配石遺構や盛土遺構などの祭祀にかかわる遺構も見つかっています。遺跡から遠く離れた場所で産出する黒曜石やアスファルトも出土しており、これらの物資が集まるような、地域の拠点的な集落として位置づけられます。
このような大規模な集落は、中央の広場を中心として、東西に居住施設である竪穴建物が広がっています。その分布には偏りがあり、「東ムラ」・「中央ムラ」・「西ムラ」の3つに分かれます。なかでも「中央ムラ」は、ストーンサークル状になっている配石遺構と、墓とみられる土坑を中心に、その外側に掘立柱建物がつくられています。その前の時期には竪穴建物やフラスコ状土坑がつくられており、この場所における集落のあり方が変わっていく様子が見られます。


左側の円筒(上層式)土器は、突起を4つ巡らせ、口縁には粘土紐を貼り付けています。ヘラ状の工具で線を描いた装飾があります。右側の大木式土器は、円筒土器とは、器形や装飾に違いが見られ、ヘラ状の工具を用いて渦巻が表現されています。
大木土器文化
6,000年前から5,000年前頃にかけて、おおむね北緯40°付近を境界として、その北には「円筒土器文化」、南には「大木土器文化」とよばれる二つの土器文化圏がありました。
東北南部の「大木式土器」は、宮城県の松島湾沿岸にある大木囲貝塚から発掘された土器をもとに名づけられた土器です。円筒土器と異なり、くびれや膨らみなどの形と渦巻の文様が特徴です。大木土器文化と円筒土器文化は同じ時期に展開しますが、その後、大木式土器の影響が北へと延びていきます。



まとめ
円筒土器文化のもとで営まれた大規模ムラは、単なる「人が多く住む集落」ではありませんでした。
そこには、食料の確保から加工・貯蔵、祭祀、さらには遠隔地との交流までを含めた、完成度の高い生活システムが存在していました。
山内丸山遺跡や大船遺跡、御所野遺跡に見られるように、縄文時代の人びとは長い時間をかけてムラを維持し、発展させていきました。その背景には、多くの人びとの協力と、自然と共生する知恵があったといえるでしょう。
また、同時期に展開した大木土器文化との関係を見ても、縄文時代は決して閉ざされた世界ではなく、文化や物資が行き交うダイナミックな時代でした。
大規模ムラの姿を知ることは、縄文時代のイメージを大きく塗り替えてくれます。
ぜひ実際の遺跡を訪れながら、約6,000年前に広がっていた人びとの営みに思いを巡らせてみてください。
※「世界遺産 縄文」の冊子を参照にして文章を構成しています。