先日、横浜市にある 横浜市歴史博物館 の企画展を見に行ってきました。
この博物館のすぐ隣には、国の史跡に指定されている 「大塚・歳勝土遺跡」 があります。
弥生時代の遺跡といえば、静岡県の 登呂遺跡 や佐賀県の 吉野ヶ里遺跡 のような大規模で有名な遺跡を思い浮かべる人が多いかもしれません。
それに比べると、大塚・歳勝土遺跡は規模も内容も、いわば「ごく普通の弥生時代の遺跡」です。
それにもかかわらず、なぜこの遺跡は国の史跡に指定されているのでしょうか。
実はそこには、考古学的にとても興味深い理由がありました。
今回は、横浜市歴史博物館の見学とあわせて歩いてきた 大塚・歳勝土遺跡の魅力と、史跡指定の理由について紹介したいと思います。
大塚・歳勝土遺跡とは?|横浜に残る弥生時代のムラ
大塚・歳勝土遺跡は、神奈川県横浜市都筑区にある弥生時代の遺跡です。
時代は、横浜市域で稲作が広まり始めた「弥生時代中期(約2000年前)」と考えられています。
この遺跡は主に次の2つで構成されています。
- 大塚遺跡:環濠集落(堀で囲まれたムラ)
- 歳勝土遺跡:方形周溝墓(弥生時代の墓地)
つまり、「ムラ」と「墓地」がセットになった弥生時代の遺跡です。
ただし、遺跡の規模だけを見れば、決して特別に大きいわけではありません。
西日本にある大型の弥生遺跡と比べると小規模で、同程度の環濠集落は関東地方にも多く存在しています。
墓地である歳勝土遺跡についても、副葬品などは特別豪華というわけではなく、比較的「ふつう」の遺跡といえます。
それでは、この「ふつうの遺跡」は、なぜ国の史跡に指定されたのでしょうか。
「ふつう」の遺跡が国の史跡になった3つの理由
大塚・歳勝土遺跡が評価された理由は、大きく分けて3つあります。
① 環濠集落の全体像が発掘された
弥生時代の環濠集落は、九州から関東地方まで広く分布しており、関東地方だけでも2000以上の調査例があるといわれています。
しかし、多くの場合は、
- 道路工事
- 住宅開発
- 建設工事
などの際に部分的に発掘されるだけで、集落全体が調査されることはほとんどありません。
ところが 大塚遺跡では、台地上の集落をほぼ全面的に発掘調査することができました。
そのため、
- 環濠(堀)
- 住居の配置
- ムラの構造
など、弥生時代の環濠集落の全体像を明確に示すことができた遺跡として重要視されています。

こちらの写真では、右上に「S16号」という文字が見えますが、その周辺に歳勝土遺跡の方形周溝墓がありました。1975年11月撮影時には、歳勝土遺跡の方形周溝墓が埋め戻され畑になっているのがわかります。
環濠集落の環濠とは?
環濠とは集落のまわりにめぐらされた溝のことで、弥生時代の集落には環濠をともなうものが多いです。このような環濠集落は縄文時代にはみられないことから、朝鮮半島から稲作とともに伝わったものと考えられています。
② 集落と墓地の関係がわかった
弥生時代の遺跡では
- 集落
- 墓地
がそれぞれ別々に見つかることは多くあります。
しかし、集落と墓地をセットで、しかも全面的に調査できた例は非常に少ないのです。
大塚遺跡(ムラ)と歳勝土遺跡(墓地)は隣接しており、
- ムラの人々がどこに墓を作ったのか
- 集落と墓地の位置関係
などを考えるうえで、非常に重要な資料となりました。

③ 地域の遺跡群が広範囲に調査された
大塚・歳勝土遺跡の周辺では、港北ニュータウン開発に伴って大規模な発掘調査が行われました。
その範囲はなんと「約5km四方」そして調査された遺跡は約200か所にも及び、事前の徹底した遺跡分布調査により、少なくとも台地上の遺跡はほぼすべて調査されたとされています。
このように、一地域の遺跡群を広範囲に調査したことで集落同士の関係や変遷を研究できるようになりました。
大塚・歳勝土遺跡は、こうした南関東の弥生時代研究を代表する遺跡として評価されています。
横浜市歴史博物館から遺跡公園へ
横浜市歴史博物館の館内からエレベーターを利用すると、大塚・歳勝土遺跡公園へ続く陸橋に出ることができます。


陸橋は「歴博通り」という道路をまたいでおり、そのまま遺跡公園へアクセスできる便利な構造になっています。遺跡は台地の上にあるため、公園入口から少し坂を登るように歩いていくと、竪穴住居が復元されたエリアに到着します。

大塚遺跡|復元された弥生時代のムラ
公園内には、弥生時代のムラを再現した
- 竪穴住居
- 高床倉庫
などが復元されています。
そして、環濠集落では、外敵からムラを守るために
- 堀
- 柵
- 乱杭(とがった木杭)
などの防御施設が設けられていたと考えられており、大塚遺跡でも、こうした構造を再現した展示を見ることができます。
大塚遺跡は、宮ノ台式期の遺構としては、環濠・竪穴住居・高床倉庫のほか、土坑・溝・柱穴列(ちゅうけつれつ)などの用途不明の遺構があります。これらの遺構のほとんどは環濠にかこまれた内側でみつかっています。竪穴住居はほぼ全面に分布していますが、北西側に中期の竪穴住居の分布していない範囲があるなど、分布には濃淡があります。
宮ノ台式期とは?
宮ノ台式土器とは、弥生時代中期後葉(およそ2,000年前とされる)の南関東にみられる土器型式です。千葉県から埼玉県、東京都の一部、神奈川県のほぼ全域に分布します。当時の関東地方は、周辺地域の影響を受けたいくつかの地域圏に分かれていましたが、宮ノ台式土器の分布する南関東は、東海地方からの影響を強く受けていたことがわかっています。

環濠の北西側では底部に四本のピットが検出されており、ここに橋がかけられていたのではないかと推測されています。一方、反対の南東側の歳勝土遺跡方面では削平を受けて残りが悪かったためか、こうした痕跡はみつかりませんでした。ですが、この大きさのムラの出入り口が一か所だけだったとは考えにくく、旧道よりやや北東側の濠底部で検出されたピット群に注目して、ここにも出入口があったのではないかと考えられています。


さきほど入ってきた入り口に突き立てられている柱は「柵」です。
環濠の機能については、ムラを守るための防御施設だったという意見がもっとも有力であり、弥生時代に稲作がはじまると、土地や水をめぐって集団の間で争いがおこり、敵からムラを守るために環濠をめぐらせたというのであります。

環濠集落は、環濠をもたない集落とくらべて集落の境界線が明確です。そのため、集落の規模や人数についての考察がしやすいという利点があります。大塚遺跡では弥生時代中期の住居はほとんど環濠の内側にあるため、集落のまとまりが把握しやすいのです。弥生時代中期の竪穴住居は78軒みつかり、竪穴住居の平面形は楕円ですが、丸みの強い円形に近いものから長方形に近いものまであります。

建物の四隅に大きくて深い穴(ピット)が四つ掘られていて、屋根を支える柱が立てられていた主柱穴だとわかります。建物の中央から少しずつずれた位置には炉(いろり)があり、竪穴の長軸上の炉と反対側、壁から30~60センチの位置にもピットがあり、このピットは出入口のハシゴを固定するための穴です。





竪穴住居の中に入ることも可能ですが、内部はかなり暗く、土の匂いが強いので、弥生時代の住居環境をリアルに体感できますし、復元住居の背後にはショッピングモールの駐車場が見え、古代と現代が同居する不思議な景色が広がっていました。さきほどの1975年当時の大塚遺跡の周りは木々が多かったのですが、現在の大塚遺跡は、そんな木々などなく、港北ニュータウンの開発によって発見された遺跡であることを実感できます。

歳勝土遺跡|弥生時代の墓地「方形周溝墓」
歳勝土遺跡は大塚遺跡の墓域です。
墓域は大塚遺跡の南東側に80メートルほど離れた場所にあり、遺跡は東西の台地に分かれていますが、おもに調査されたのは西側の台地です。
歳勝土遺跡の発掘調査は、ほぼ20年におよぶ港北ニュータウン遺跡群の調査の初期におこなわれ、1972年3月、調査団の本部が歳勝土遺跡のふもとにある場所に移転してきたことがきっかけです。
ある日、裏山に上った調査員が、畑の土取りで縄文時代の竪穴住居がむきだしになっていることに気がつきます。このころは早渕川南岸の遺跡で発掘調査がはじまっていましたが、事務所のすぐ背後にあり、破壊が差し迫っている歳勝土遺跡をまず調査することになったのです。
最初に確認された縄文時代中期の竪穴住居群は遺跡の西側の縁辺部にかけて広がっていて、その東側から弥生時代中期の方形周溝墓群が見つかりました。
方形周溝墓群とは?
方形周溝墓とは四本の溝を四角形(方形)にならべ、その中央に遺体を埋める墓穴(主体部)を設けたお墓です。つくられた当時は、四方の溝を掘り上げた土を中に盛り上げていました。ほとんどの遺跡ではこのマウンド部分は後世に削られてなくなってしまい、四本の溝と中央の主体部だけが残されていきます。高く塚上に土を盛り上げる古墳とはちがい、この盛土はせいぜい数十センチの高さであり、溝で周囲を区画することに主な目的があったと考えられています。






横浜で弥生時代を体感できる貴重な遺跡
このように、大塚・歳勝土遺跡は
- 環濠集落
- 方形周溝墓
- 周辺遺跡群
を総合的に見学できる、南関東の弥生時代を代表する遺跡です。
遺跡がここまでまとまった形で発掘された例は少ないため、考古学的にも非常に価値の高い遺跡といえます。
また、隣接する横浜市歴史博物館では、縄文時代から古代までの資料を見ることができ、展示されている縄文土器も非常に見応えがあります。
古代史や考古学に興味のある方には、博物館と遺跡公園をセットで見学するのがおすすめです。
横浜の都市の中で、2000年前の弥生時代のムラを歩くことができる、貴重な場所でした。