2025年は、これまで以上に博物館巡りを充実させ、その記録をブログにしっかり残していきたいと考えています。
今回は、仕事の合間に「縄文時代の企画展」を探していたところ、横浜市歴史博物館で興味深い企画展が開催されているのを見つけました。企画展「縄文ムラの繁栄・かながわ遺跡展」です。
横浜市歴史博物館は、横浜市都筑区にある博物館で、隣接地には国の史跡である大塚・歳勝土遺跡公園が広がっています。
横浜市歴史博物館(センター北駅から徒歩約10分)
2025年1月12日、家の最寄り駅から約1時間50分かけて、横浜市営地下鉄ブルーライン・グリーンラインのセンター北駅に到着しました。
駅周辺は商業施設が充実しており、非常に活気のあるエリアです。博物館への案内表示もあり、初めて訪れる方でも迷わずアクセスできます。
駅から徒歩約10分で横浜市歴史博物館に到着。道は分かりやすく、体感としてはそれほど遠く感じませんでした。





神奈川県にある遺跡を中心に、神奈川県の縄文時代中期に焦点を当てた企画展でした。
縄文時代中期・繁栄の時代(かながわ縄文中期の輝き)
縄文時代中期は、一万数千年以上続いた縄文時代のうち、およそ5,500~4,500年前の時期にあたります。特に、東日本では、縄文時代の中でも集落数・住居数が多いことが知られ、社会が繁栄した時期と考えられています。
今回の企画展では、縄文時代の人びとが暮らした集落(ムラ)を軸に、主に中期中葉から後葉の繁栄の様子を紹介します。

繁栄時代の土器
中期の縄文土器には、華やかで力強い印象を与えるものが目立ちます。
神奈川県内で用いられていた土器は、おもに中期前葉は五領ヶ台式土器(ごりょうがだいしきどき)、中葉は勝坂式土器、後葉は加曽利E式土器と呼ばれているものです。また、後葉には甲信地方の曽利式土器や多摩・武蔵野地域を中心に分布する連弧文土器も多く見られ、さらには、複数の型式土器jには、器面を埋め尽くすほどの文様や、把手に代表される複雑で過剰ともいえる装飾が施されているものがあります。また、ひとりで動かすことが簡単ではないほどの大形の土器や、使い勝手を無視したかのような器形の土器、有孔鍔付土器や釣手土器といった特殊な土器が現れ、社会の繁栄ぶりが縄文土器の造形に反映されているかのようです。
勝坂式土器



加曽利E式土器



曽利式土器




有孔鍔付土器
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、主に縄文時代中期(約5400〜4500年前)の関東・中部地方で使われた、口縁部に穴(有孔)と鍔状の突起(鍔付)がある特殊な樽型・壺型土器です。山ブドウの種子が出土した例から「酒造容器」、または皮を張って「太鼓」として使われた説が有力です。




釣手土器
釣手土器(つりてどき)は、縄文時代中期(約5500〜4500年前)の主に中部地方で作られた、浅い鉢の口縁部にアーチ状の取っ手が付いた特殊な土器です。植物油などを入れ、灯芯を使って明かりを灯す「ランプ(祭祀用)」として、マツリの際に使われたと考えられています。




縄文時代集落研究のあゆみとかながわ
神奈川県内での集落遺跡の調査は、東日本の縄文時代集落研究に大きな貢献をしてきました。集落遺跡の調査の歴史の中から、注目されるものをいくつかあげます。
竪穴住居跡を初めて発掘調査をしたとされるのが「N.G.マンロー」さんです。マンローは、1905年(明治38年)に三ツ沢貝塚(横浜市神奈川区)の発掘調査をを行い、炉跡と柱穴を発見、これが竪穴住居跡の初報告とされていますが、そのごの調査研究にすぐ結びつくことはありませんでした。
戦前の研究は、竪穴を残した人びとが何者なのかという人種論争や、時間軸の基準となる土器編年の整備の整備を目的とした研究が主流でした。調査も層位にもとづいた研究に適したトレンチ調査や貝塚調査が主で、集落研究が行われるような段階ではなかったと言えます。
縄文時代の集落研究は、太平洋戦争後に本格化しました。
1995年(昭和30年)に横浜市史の編さんにともない、輪島誠一・岡本勇らにより行われた「南堀貝塚(横浜市都筑区)」の調査は、縄文時代前期の集落跡の全貌を明らかにした画期的な調査と評価されています。原始集落の構造を解明することを目的とし、台地のほぼ全体を発掘調査をするという意図を思った最初の大規模調査でした。

ニュータウン開発と遺跡群研究


高度成長期以降、大都市横浜の人口が増加は著しく、横浜市の郊外は開発の時代を迎えます。
1969(昭和44年)から始まった港南台遺跡群(横浜市港南区・榎戸第1遺跡ほか)の調査は、その端緒と言えます。
現在の横浜市都筑区に計画された港北ニュータウンは、新規開発面積が約1340ha、計画人口30万人の街をつくるという非常に大規模な区画整理事業でした。1970年(昭和45年)に港北ニュータウン調査団が組織され、遺跡の分布状況などを確認する予備調査が開始され、1972年(昭和47年)からは、本格的に発掘調査が始まりました。予算や期間も十分とは言えない中で、それぞれの遺跡を単独ではなく、有機的に捉え、その社会構造や集団構成に迫る「遺跡研究群」の方向性が示され、その後20年近くにわたって発掘調査が行われました。その結果、三の丸遺跡、神隠丸山遺跡、大熊仲町遺跡など縄文時代集落が多数発掘された全国的にも貴重な地域となっています。1989年(平成元年)に横浜市埋蔵文化財センターが発足し、調査団から事業が引き継がれ、現在も出土品などの整理作業が継続されています。



当麻遺跡
当麻遺跡第3地点(相模原市南区)は、国道129号の整備にともない、1974年(昭和49年)から発掘調査が行われました。
それまでの調査に比べ、遺物が出土した位置の記録への注意が払われ、報告書に示された画期となる調査でした。その後、土地区画整理事業にともない、1989年(平成元年)に西側に隣接する範囲が田名花ヶ谷戸遺跡として調査され(2次調査)、2021年(令和3年)から東側に隣接する範囲が第4次調査として 発掘調査が行われました。









下原遺跡・上中丸遺跡・下中丸遺跡
大規模土地区画整理事業に伴う調査の例としては、相模原市南区の姥川流域の下溝遺跡群があげられます。
下原遺跡、上中丸遺跡、下中丸遺跡といった縄文時代集落が群在し、1986年(昭和61年)から相次いで発掘調査が行われました。その結果、上中丸遺跡と下中丸遺跡B地区の一部は、同一の環状集落を形成しているということが明らかになるなど、8期に渡る集落の変遷が捉えられています。







丹沢山麓の最新成果
丹沢山麓んい位置する秦野市や伊勢原市では、新東名高速道路や厚木秦野市道路(国道246号バイパス)の建設に伴い、2007年(平成19年)以降、多くの発掘調査が行われています。調査事例がそれほど多くなかった丹沢の山麓部の縄文時代集落の様子が明らかになっており、柳川竹ノ上遺跡(秦野市)や稲荷木遺跡(秦野市)は、中期の環状集落としても注目されています。
また、神成松遺跡(伊勢原市)では、土偶装飾付き土器の破片が出土するなど、県内でも事例が少ない遺物が出土しており、今後の発掘調査が期待されます。



遺跡を残し、伝える「勝坂遺跡」|勝坂式土器のふるさと
経済成長の波の中、たくさんの発掘調査が行われるようになりました。しかしそれは、開発とともに遺跡が姿を消していくということも意味しています。その中でも、現状保存され、後世に遺跡の価値が伝えられることになった遺跡を紹介します。

勝坂遺跡(相模原市南区)は、縄文時代中期の勝坂式土器設定の基準となった標式遺跡として著名な遺跡です。
その調査の歴史は古く、1926年(大正15年)には、陸軍軍人で考古学者でもあった大山柏の大山史前学研究所による調査が行われています。太平洋戦争の戦火により不幸にもその発掘資料は焼失してしまいますが、多量の打製石斧の出土が、縄文時代に農耕がおこなわれていたという証拠として注目されたことは、縄文時代の生業研究において重要なことです。1970年代になると、勝坂遺跡周辺にも、市街化の波が押し寄せ、住宅地の建設などにより、遺跡は破壊の危機に直面しましたが、市教育委員会による試掘調査などにより、縄文時代中期の集落が良好に残っていることが確認されたため、勝坂遺跡は1974年(昭和49年)7月に国史跡に指定されます。指定の際には、研究者や市民が一体となった保存運動が展開され、大きな力になりました。




「川尻遺跡」晩期に続くムラ
相模原市南区の川尻遺跡(川尻石器時代遺跡)は、剣の谷ケ原浄水場周辺一帯に広がる遺跡で、国の史跡となっています。
川尻遺跡の史跡指定は1931年(昭和6年)のことで、床面に石を敷き詰めた敷石住居跡の発見が契機でした。敷石住居跡の発見は、当時まだ目新しく、石を敷き詰めるという特異な様相に学会の関心が強く持たれたこともあり、同時期の1930年(昭和5年)には寸沢嵐(すあらし)石器時代遺跡(相模原市緑区)1934年には伊勢原八幡台石器時代遺跡が、県内で相次いで国史跡に指定されています。



「道場窪遺跡」河川漁撈を語るムラ
綾瀬市の西部を流れる目久尻川の左岸には、道場窪遺跡があります。
1998年(平成10年)に市のリサイクルプラザ建設のための発掘調査が行われました。この調査により、縄文時代中期の竪穴住居跡28軒など、中期集落が良好な形で検出され、漁網のおもりとして利用された石錐や土器片錐といった河川漁撈の様子がうかがえる遺物などが出土しました。集落の半分以上が、まだ調査地の周辺に残っていると考えられ、綾瀬市域における縄文時代中期のひとびとの暮らしや生活環境を考える上で貴重な遺跡であることから、2024年(令和6年)3月に綾瀬市の指定史跡になっています、




神奈川県は、素晴らしい土器などが出土した遺跡が多くある県なんだと強く思いました。
縄文時代中期集落(ムラ)のすがた
縄文時代の集落(ムラ)の姿はどのようなものだったのでしょう。県内の代表的な遺跡を概観しながら、その姿に迫ってみました。
環状になるムラ
港北NT(ニュータウン)遺跡群のひとつ「二ノ丸遺跡(横浜市都筑区)」は、中期後葉(加曽利E式期)を中心とした遺跡で100軒を超す竪穴住居跡が見つかりました。最終的な集落の配置図を見ると、住居が台地の縁をめぐるように約100×40mの楕円形状に分布しています。円環状の配置になる集落は環状集落、あるいは馬のヒヅメに似た形から馬蹄形集落とよばれてきました。

阿久和宮腰遺跡(横浜市瀬谷区)は、中期中葉~後葉(勝坂式期から加曽利E式期)に継続的に営まれた集落です。このような継続的な環状集落は、住居が内側に重ねてつくられ、集落の環が徐々に小さくなる傾向にあることが知られています。一方、集落の中央部分は広場のように空閑地が確保され、住居が作られる場所は最終的にドーナツ状の形となります。住居を自由な場所につくるのではなく、集落の形成にも何らかの社会的な決まり事が存在していたと考えられます。




集落の環が複数連なるような集落も存在します。杉久保遺跡(海老名市)は、現在の東名高速道路海老名サービスエリアを望む台地状につくられた集落で、2つの環状集落が接するように見つかっています。中期中葉~後葉(勝坂式期~加曽利E式期)にかけて継続した集落ですが、その主体が北側のムラから南側のムラへと徐々に移動している傾向があるようです。

岡田遺跡(寒川町)は、相模川右岸を代表する遺跡で、全国的にも珍しく3つの集落の環が連なると考えられている巨大集落です。1982年(昭和57年)以降、大規模な発掘調査が遺跡の西側を中心に行われ、中期中葉~後葉(勝坂式期~加曽利E式期)の住居跡が600軒以上調査され、県内屈指の規模を誇っています。集落からは、釣手土器が多く見つかっていることが特筆されます。



「大きな」ムラ・「小さな」ムラ
大熊仲町遺跡(横浜市都筑区)は、環状集落の半分が調査前に失われていたものの、中期中葉~後葉(勝坂式期~加曽利E式期)の住居跡170軒以上からなる港北NT遺跡群を代表する集落のひとつで、環状集落の直径も大きく約120mの大きさです。
その大熊仲町遺跡から南西側に続く台地上には、70mほど離れて上台の山遺跡(うわだいのやまいせき)位置しています。大熊仲町遺跡に比べると集落に作られる住居は少なく、中期中葉~後葉(勝坂式期~加曽利E式期)の竪穴住居跡が5軒だけという小規模な集落ですが、住居跡が台地の縁を巡るように位置し、環状を意識したかのような配置になっていることは注目されます。


港北NT遺跡群の大高見遺跡、小高見遺跡も比較的規模の小さな遺跡です。大高見遺跡と小高見遺跡は、同じ丘陵上に隣接して立地しています。周辺の丘陵上は、小丸遺跡、高山遺跡、前高山遺跡、三の丸遺跡と環状集落が連なる地域ですが、大高見遺跡と小高見遺跡は、集落の形成が断続的で、同じ時期につくられた住居数も多くはありません。また、住居が重複してつくられることもほとんどありません。何が原因でこうした集落規模の違い発生するのか明確ではありませんが、「大規模」集落の姿は長年の累積による最終的な形態を反映していることに注意が必要です。「大規模」集落の一時的な姿は、「小規模」集落とほとんど変わらない可能性も考えられます。


「小規模」集落も、周囲の環状集落と無関係であったとは考えにくく、それぞれの集落は孤立した個別の集団の居住地ではなく、ひとつの集団が、地域全体の中で、分散や移動を繰り返していたとも考えられています。このような「小規模」集落の存在は、環状集落の形成過程を理解する上で、重要な手がかりになる可能性をもっています。
まとめ ー長くなったので続き記事ありますー
今回訪れた「ムラの繁栄展」は、単なる遺物の展示にとどまらず、人々がどのように暮らし、どのように社会を築き、発展させていったのかを感じられる興味深い内容でした。
出土品や資料の一つひとつからは、当時の人々の工夫やつながり、そしてムラが繁栄していく過程が見えてきます。遺跡は過去のものではありますが、その背景にある営みは、現代にも通じるものがあると感じました。
博物館の展示は、「過去を知る」だけでなく、「今を考える」きっかけにもなります。今回の見学を通して、何気ない日常や地域の成り立ちについて、改めて考える良い機会となりました。
※本文は、かながわ遺跡展「縄文ムラの繁栄ーかながわ縄文中期の輝きー」の冊子から抜粋しました。
