【山梨県立考古博物館】企画展「玉ものがたり」へ|縄文時代のヒスイ大珠から古墳時代の勾玉まで

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山梨県立考古博物館で、企画展「玉ものがたりー古代からのメッセージー」が開催されていました。

偶然、山梨県立考古博物館の公式サイトを見ていたときに知った今回の企画展。実は今年、ヒスイの大珠をはじめとする縄文時代の玉製品に興味を持ち、各地の博物館や遺跡を訪ねていました。そんな私にとって、これはぜひとも見ておきたい企画展でした。

展示室はひと部屋でしたが、その内容は驚くほど充実しています。縄文時代の石製装身具から、弥生時代の勾玉や管玉、そして古墳時代の色鮮やかな玉製品まで、時代ごとの特徴や変化をたどることができました。

美しい玉製品の数々はもちろん、硬い石に穴を開け、丁寧に磨き上げる技術にも目を奪われます。さらに、遠く離れた地域で採れた素材が使われていることからは、当時の人々が広い範囲で交流していたこともうかがえます。

古代の人々は、なぜ玉を身につけ、どのような思いを込めていたのでしょうか。

今回は、山梨県立考古博物館の企画展「玉ものがたり」で出会った、縄文時代から古墳時代までの玉製品を紹介します。

山梨県立考古博物館の企画展室ひと部屋しかありませんでしたが、展示内容は驚くほど濃いものでした

人は古来より、さまざまな装身具を作成して、身につけてきました。日本列島では旧石器時代にその存在が確認できて以来、時代ごとによって装身具は作られてきました。

縄文時代の装身具は当初、動物の骨や貝など身近な素材が用いられ、早期後半ごろからは、研磨によって光沢をもつ美しい玉製品の装身具が多く使用されるようになります。

耐久性が高く希少な素材に穿孔や研磨を施して作られる玉製品は、手間とぎじゅつを要する貴重品です。これを見につける行為には、単なる装飾性にとどまらず、所有者の社会的立場を象徴する意味や、呪術的な観念が付随していたと考えられます。

玉製品は、消費地から遠く離れた地域で産出した素材を用いたものも多く含み、当時の人たちの贈与や交換を通じて広域的なつながりを築いていたことを示す貴重な証拠です。加えて、玉製品は、技術、信仰、社会構造などについて、各時代を多様な文脈で読み解く手がかりとなります。

令和8年夏の企画展「玉ものがたりー古代からのメッセージー」山梨県立考古博物館の館長のお言葉です。
目次

縄文時代の玉製品

縄文時代の玉製品ー縄文時代・石製装身具のひろがりー

石製の装身具は、北海道南西部などの旧石器時代の遺跡から確認できますが、日本列島で本格的に使用されるのは縄文時代早期の終わりごろからです。柔らかい滑石や、石器の道具である蛇紋岩など、磨くことでキレイに光る石を使用して垂飾(すいしょく・ペンダントヘッド)が作られ始めました。初期の垂飾は、へら状製品や「の」の字状のペンダントなど特徴的な形状のものに加え、楕円状のものなどさまざま存在します。縄文時代中期には大型化した『大珠(たいしゅ)』が流行しますが、後・晩期になると小型の丸玉が普及し始めるなど、縄文時代を通して形状に大きな変化が見られます。

けつ状耳飾

縄文時代の特徴的な装身具として『けつ状耳飾』があります。

けつ状耳飾は、縄文時代早期末に出現し、中期前葉まで続いていきます。けつ状耳飾の形態は、厚手で切れ目の長さが短いものから、扁平で切れ目の長さが大きいものへと変化していくと考えられています。

さまざまな素材・形状のある装身具
けつ状耳飾が全体的なのは8番・9番です

けつ状耳飾の装着は、ドーナツ状の平たい石材の1部に切れ込みが入っており、耳たぶの穴に通して使用したと考えられます。ひとつの遺跡から出土する数が少ないことから、集団の中でも限られた人が着けられるような装身具だったようです。

また、けつ状耳飾には小さな穴が開けられているものがあります。これは、割れてしまったものを直して再利用するパターンと、割れ口を丁寧に磨き、紐を通して垂飾にしたと考えられるパたがあります。壊れてもすぐ廃棄しないのが縄文人、展示していあるけつ状耳飾には、割れ口を磨いた様子が確認できるものがあります。

12番の米田遺跡のけつ状耳飾は、割れ口を磨いた様子がよくわかります。

縄文時代の人たちのオシャレさは、博物館に行くたびに感動します。

いつの時代も、自分を着飾る(理由はいろいろあれ)ことは共通ですね。

ペンダントヘッドと玉類

縄文時代中期に流行した『大珠』、後・晩期になると、小型の丸玉が普及し始めます。

ペンダントヘッド・玉類

25番には「穿孔用ドリル」が展示されています。

ペンダントヘッド・玉類には、ヒスイやコハクといった希少な石を使ったものがあります。多くの場合、産地近くの遺跡で加工されたものが流通していましたが、石製の装飾品がすべてが製品で流通していたわけではありませんでした。

大泉町古林第4遺跡からは、玉髄製の臼玉とドリルが出土しています。臼玉の穿孔部とドリルの先の形状があうことがわかっており、この遺跡で加工していたことを示すものです。

加工されたものが流通されていましたが、その集落、集落で加工されていたものもありました

31番青木遺跡から出土した精巧なつくりの石製装身具が展示されています。

5箇所に丁寧に穿孔を施した極めて精巧なつくりの蛇紋岩製の装身具です。全国的にも類例がなく、どこで発生し、伝播してきたものか定かではないようです。

31番・腰飾でしょうか??
大珠・玉斧
ヒスイではないですが、さまざまな石で大珠が作られていました
上ノ原遺跡の大珠は割れていますが、かなり大きいものだったと想像できます(それに重い)
玉斧・ハマグリ形のペンダントもあります

さまざまな石製の装身具が縄文時代の人たちを飾っていたのがよくわかります。

酒呑場遺跡の装身具

酒呑場遺跡(さけのみばいせき)は、長坂駅から南へ1㎞ほどのところにある山梨県畜産酪農技術センター長坂支所内および、その周辺に広がっています。

縄文時代前期から後期初頭の集落遺跡で、200を超える住居跡や、5800を超える土坑などが確認されており、中部高地のなかでも大きな集落であることがわかっており、山梨県内を代表する大規模な拠点的集落であることがわかってきました。

出土品としては装飾性が高い土器が注目されますが(山梨県立考古博物館の常設展示で見ることができます)、玉類品も、とても素晴らしいです。けつ状耳飾に始まり、ヒスイ製品、垂飾など、多岐にわたる石製の装身具が見つかっています。

酒呑場遺跡

ヒスイ製品と原石とハンマーとサメ歯垂飾

なかでもヒスイ製品は、原石、敲き石(ハンマー)、垂飾がそれぞれ出土しており、石材の原産地以外でこのような様子が確認できる遺跡は多くありません。

そのほか特徴的な装身具として、サメの歯を模したと考えられる垂飾や、土製の貝輪型ブレスレットが見つかっており、海なし県山梨の縄文人が遠い地域と交流していた様子を垣間見ることができます。

ヒスイのハンマーは糸魚川市の長者ヶ原遺跡で見ましたが、ここ山梨県でも見ることができるとは思いませんでした
ハンマー
手に馴染む大きさですね
きれいな緑が入っている石です
どの角度から見ても美しい…
ツルツルスベスベとキレイに磨かれています
壊れたペンダントなど出土します。玉づくり製作がいかに難しいか物語っている気がします。

土製耳飾とけつ状耳飾

土製耳飾は、耳たぶに空けた孔にピアスのようにはめこんで装着する栓状の耳飾りです。けつ状耳飾が衰退していく中期前半に出現し、晩期まで続いていきました。北海道から九州まで出土しますが、東日本に集中しています。

土製耳飾とけつ状耳飾

ヒスイを身につけた人びとーヒスイの大珠から丸玉・勾玉ー

縄文時代の玉製品に欠かせないヒスイですが、ヒスイが採れる場所は日本では11ヶ所しか確認されておらず、実際に切り出した遺跡が見つかっているのは新潟県糸魚川のみです。また、ヒスイは非情に硬く、加工には高度な技術が必要でした。そのため、基本的に一つのムラから大量に出土することはなく、希少性の高い素材だったと考えられます。

こうした背景から、ヒスイ製の玉製品は集団の中でも限られた人物、例えばムラの長や、呪術的な役割を担う者が身につけていたと考えられます。ヒスイは美しさだけではなく、権威や特別な力を象徴する素材だったのでしょう。

ヒスイを身につけた人びと
ヒスイを見るとテンションあがります笑
金生遺跡:さまざまな形に加工されたヒスイ。大珠から丸玉、勾玉まであります(縄文時代後・晩期)

ところで、ヒスイ大珠にはいくつかの形態に分けられます。

山崎第4遺跡、次郎構遺跡(じろうがまえいせき)、酒呑場遺跡から出土している長楕円形をした『鰹節形』、古林(こべえし)第4遺跡や酒呑場遺跡から出土している円柱のような形をし、長軸にそって孔が開けられている『緒締(おじめ)形』などがあります。古林第4遺跡の大珠は孔が貫通していません。その形状から笛の可能性も指摘されています。

ヒスイ『鰹節形』ヒスイのスタンダード系みたいなものですね
長軸に沿って孔が開けられる『緒締形』古林第4遺跡の大珠は孔が貫通していません。
孔が縦に開けられています
ヒスイはとても硬いため、硬いヒスイに孔をあけるには高度な技術が必要です
いろいろな角度から見て、ウットリしていました

大珠は、ほぼ全てのものに孔が開いていますので、紐を通し吊るしていたと考えられます。

しかし、山崎第4遺跡の大珠は、重さが200g以上あり、これだけの重さのものを普段から吊るしていたとは考えにくく、お祭りや祈りを捧げるときなどの特別なときに吊るしていたのかもしれません。

ヒスイは光を透過します

ヒスイの透明感が高くて、縄文時代の人たちの目利きにも感心します。

コハク玉

コハクとは、樹脂が固まり化石化したもので、透明感のある黄褐色の美しい色合いをしており、現在はでも宝石として愛用されています。

旧石器時代の遺跡から出土例もあります。縄文時代には前期から晩期のものまで見つかっていますが、中期に最も多く広範囲に流通しました。

コハク玉。コハクはヒスイなどと一緒に重宝され装飾品に使用されました。

国内では、10数箇所の産地がしられていますが、産出量や質などから縄文時代に流通していたのは、岩手県久慈市、福島県いわき市、千葉県銚子市で産出されたものと考えられています。

コハクにもヒモを通す孔があけられています。

千葉市の講演会に行ったとき、千葉県銚子市の海岸に行って、毎日コハクを拾い集めている方がいらっしゃると聞いて、自分もそういう生活してみたいなと変なことを思ったことを覚えています笑。

土製耳飾ーピアスのように装着する耳飾りー

縄文時代を代表する装身具「土製耳飾」。

土製耳飾は、耳たぶに開けた孔にピアスのようにはめこんで装着する栓状の耳飾りです。けつ状耳飾が衰退していく中期前半に出現し、晩期まで続いていきました。北海道から九州まで出土しますが、東日本に集中しています。

形状は、低い円柱形または椎骨形(形が魚や小動物の背骨(椎骨)に似ている)をしたもの、上面が大きく開き下方にしぼんでいく漏斗形のもの、上面がドーム状を呈する椀形の大きく3つに分けられます。

椀形は晩期の東北地方や北海道で出土します。

関東地方や甲信越地方では圧倒的に、低い円柱形・椎骨形が多く、漏斗形は少数出土します。円柱形などは、さらに中央孔の有無や文様により細かく分類されています。

土製耳飾。さまざまな形の耳飾りが並びます。
このように耳たぶに孔をあけて装着します。さまざまな文様があり、種類豊富で見ているだけでも面白いですね。
耳飾りをつけている土偶。土偶は当時の様子を伝える遺物でもあります。

弥生時代の玉製品

弥生時代には、大陸から多様な文化がもたらされ、日本列島の人びとの生活や文化は大きな転換期を迎えました。

「玉」の世界も例外ではなく、縄文時代から作られてたものに新たな形状や技法が加わることで、装身具の姿は大きく進化していきます。

弥生時代の代表的な玉製品としては、縄文時代の形態を受け継ぎつつ、独自の形へと進化していく『勾玉」』、そして朝鮮半島から伝わった規格性の高い管玉が挙げられます。さらに、新素材としてガラス製の玉が登場することも、この時期の大きな特徴です。

玉製金からも弥生時代の人びとの動きやそれに伴う文化の伝播を見ることができます。
ヒスイの勾玉
縄文時代後期から弥生時代へと玉製品の大きさは小さくなっていきます。

縄文時代に流行したヒスイの大珠は、見た目もそうですが技術の結晶みたいな感じで、見た目の美しさと技術の素晴らしさにウットリしてしまいますが、弥生時代から古墳時代へと玉製品の大きさは小さくなっていきますが、色と形の組み合わせで完成されていく装身具も見ていてとても面白いです。

古墳時代の玉製品

古墳時代には、古墳に葬られた被葬者の装身具や副葬品、祭祀に用いられた道具として多くの玉製品が出土します。

古墳ごとに玉の種類や量の違いが見られるものの、古墳時代を通じて一貫して玉製品が用いされていたことが確認できます。

特徴的な玉の種類としては、弥生時代から用いられた管玉と勾玉が引き続き使われました。管玉は主として緑色の石材が使われますが、勾玉にはそれまでの石材に加え、水晶、メノウなどより多くの石材が用いられるようになります。また、ガラス玉も黄色や紺色などが広く使用されるようになり、「玉の色」がぐっと多様になります。玉の種類も増え、切子玉(きりこだま)や棗玉(なつめだま)といった形の玉も広く作られるようになりました。一方で、縄文時代から長く用いられてきたヒスイは、古墳時代中期以降になると玉製品の素材として使用されることが少なくなっていきます。

さらにこの時期には、装身具そのものの種類も増えていきます。朝鮮半島から伝わった冠や帯金具、金属製の耳飾りなどが登場し、人々はそれまで以上に華やかな装身具を身につけるようになりました。

古墳時代の玉製品
勾玉、管玉など種類多くの玉製品があります。しかも、勾玉と管玉などを組み合わせた装身具も見られます。
現代のいまでも装身具として身につけていても何も違和感がないものばかりなのも面白いですね。
これでもかっ!というくらい小さい玉製品もあります。この技術がまた凄いですね。
159・石製模造品: まつり(祭祀)・儀式における「形代(かたしろ:身代わり)」や、まじないの道具として使われました。

右下にある芋虫みたいな(失礼すぎ)勾玉のような形の石製の装身具があります。その名も「子持勾玉」です。

土製勾玉・土製丸玉:さきほどの石製模造品と同じ用途で使われたと思われます。右下は子持勾玉です。
子持勾玉とは?

主に古墳時代の中期から後期(約1,400から1,600年前)に作られた石製品で,勾玉の背や腹,側面に小さな勾玉状の突起があることから,子持勾玉と呼ばれている。川や池など水に関わる「まつり」に用いられたと思われる例もあれば,古墳や竪穴住居の中から発見されることもある。いずれも滑石(かっせき)という比較的やわらかく,加工しやすい石材で作られている。

>>福岡市埋蔵文化財センターから引用です。

山梨県の特産品「水晶・腕輪形石製品」ー水晶玉の流行ー

山梨県の特産品である水晶は、水晶の原産地推定手法が提案されたことから、古墳時代にも盛んに利用されてきたことが科学的に明らかにされています。特に古墳時代前期の水晶製玉類は、甲州市竹森鉱床産の水晶が多く用いら、東海~東北にかけて数多く消費されています。甲斐銚子塚古墳からはこの時期の日本列島で最多となる5点の水晶製勾玉が出土しており、最多の水晶を持っています。甲斐の大型前方後円墳の被葬者はこうした希少財のやりとりを、倭王権に端を発する形ではなく自ら仕切ることができたとみられます。

甲斐における石製品の生産・流通

車輪石や石釧(いしくしろ)は、腕輪形石製品と呼ばれる、古墳時代前期を代表する副葬品のひとつです。

回の腕輪を模して作られていますが、甲斐銚子塚古墳出土品は、オリジナルデザイン化が著しく進んでいるものがあるため、在地生産が疑われています。甲斐盆地でも御岳田遺跡(甲斐市)や末法遺跡(甲斐市)などで水晶や緑色凝灰岩を用いた玉づくりが知られており、こうした石製品なども生産されていたかもしれません。

水晶は透明感がありキラキラとしたきらめきがある、現代でも人気がある石ですよね。

水晶の流行・切子玉、勾玉の形をした水晶が見つかります
切子玉・わざと熱を加えて濁らせているようです
水晶という透明感があまりみられません
水晶の勾玉もなかなか良いですね
いつの時代も人を魅了?する水晶でした

玉文化の衰退

縄文時代から古墳時代にかけて、かたちを変えながら使用され続けてきた玉。しかし、装身具や副葬品としての玉は、古墳時代の終わりとともにだんだんと姿を消していきました。

飛鳥時代以上、社会的な地位を示す手段が衣服の差異へ移ったこと、薄葬令(はくそうれい)により大型の墳墓をつくらなくなったことが影響していると考えられます。

その後も仏具や祭祀の道具類として玉は使われ続けますが、現代の私たちがアクセサリーとして使用するようになるまでには、長い空白の時間が流れます。

まとめ

山梨県で出土した装身具などが中心の企画展でしたが、縄文時代から古墳時代までの玉製品の形の変化、石の流行などを詳しく知ることができました。朝鮮半島から伝わった冠、帯締め、金属製の耳飾りなど大陸からの流通が影響されて大きく日本列島が変化していくことも、この小さな玉製品から読み取れるのも面白いことです。

今回の企画展「玉ものがたり」では、縄文時代から古墳時代まで、長い時間をかけて変化してきた玉製品の世界を楽しむことができました。

縄文時代の大珠や耳飾りには、素材そのものの美しさだけでなく、硬い石を加工する高度な技術や、身につける人々のこだわりが感じられます。なかでもヒスイの大珠は、形や色合いの美しさに加え、これほど硬い石に穴を開け、丁寧に磨き上げたことに、何度見ても感心してしまいます。

そして、時代が下るにつれて、玉製品は大珠から勾玉、管玉、小さな丸玉などへと姿を変え、使用される素材や色彩も多様になっていきます。その背景には、朝鮮半島を含む遠方との交流や、社会の仕組み、人々の価値観の変化があったのでしょう。

小さな玉ひとつを見ているだけでも、当時の人々の技術や美意識、遠くの地域とのつながりまで想像できるのが、考古資料の面白いところです。

現代でも、私たちはアクセサリーを身につけておしゃれを楽しみます。時代によって形や素材、身につける意味は違っていても、美しいものに心を惹かれ、自分を飾りたいと思う気持ちは、古代の人々にも共通していたのかもしれません。

今回の企画展は、ひと部屋という限られた空間ながら、玉製品を通して古代の歴史を深く知ることができる、とても見応えのある展示でした。

山梨県立考古博物館を訪れる機会があれば、ぜひ常設展示とあわせて、山梨の遺跡から出土した装身具にも注目してみてください。小さな玉の向こう側に、何千年も前の人々の暮らしや思いが見えてくるかもしれません。

※山梨県立考古博物館の基本情報は「山梨県立考古博物館(山梨県)」のサイトをご覧ください。

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